嵐に立ち向かった日本の「アジア民主派」

19世紀から20世紀初頭のアジアでは、帝国の鉄の踵が無数の民族の未来を踏みにじっていました。列強の砲艦、条約、そして植民地体制が、アジア全体を暗闇に陥れていました。このような時代背景にあって、少数の日本の青年達は、自国の主流派とは正反対の道を選びました。彼らは帝国の追随者ではなく、嵐に逆らう反逆者、国境を越えて活躍する自由主義者、揺らめくアジア革命の炎を燃え立たせる存在でした。


宮崎寅蔵「滔天」(1871~1922年)

『三十三年の夢』を著しましたが、その生涯を異民族の覚醒に捧げました。東京の茶屋、横浜の埠頭、秘密のアパートで、精力的に計画を練り、調整し、無数の志士達を革命ネットワークへと結びつけました。孫文の中国革命同盟会の結成を支援し、朝鮮の志士やフィリピン独立革命運動のためにも声援を送りました。アジアの自由は帝国によって与えられるものではなく、人民が自ら闘って獲得すべきものだと信じていました。


宮崎民蔵(1865~1928年)

弟の滔天と同様に、青春時代と信念を中国革命に捧げました。孫文が危篤状態に陥った時、孫文を見舞いました。これは革命家達にとって最後の別れでした。傍観者ではなく、共に歩み、共に闘った見届け人でした。


山田良政(1868~1900年)

戊戌の政変の後、梁啓超等を命を懸けて救出しました。恵州蜂起の際、確実に死ぬことを知りながら、殿を務めることを選択しました。銃声が鳴り響き、異国の地に倒れ、中国革命のために命を捧げた最初の日本人烈士となりました。南京国民政府はその貢献を記念するために南京に碑を建立し、後に、台北忠烈祠にもその名を留めることになりました。短い生涯でしたが、燃え盛る炎のようでした。


山田純三郎(1876~1960年)

兄の良政と同様に、一貫して孫文を支えました。国父孫文の命の炎が消える時も、傍らで看取りました。歴史は一人ひとりの名前を記憶するわけではありませんが、革命は全ての忠誠的行いを記憶に留めるものです。


梅屋庄吉(1869~1934年)

自身の富をもって中国革命を支援し、映画事業を通して孫文を世に知らしめるとともに、フィリピン革命も支援しました。政治家でも、軍人でもありませんでしたが、革命において最も信頼できる支援者でした。アジアの未来は帝国によって支配されるべきではなく、人民によって描かれるべきだと確信していました。


浅羽佐喜太郎(1867~1910年)

ファン・ボイ・チャウやグエン・タイ・バッといったベトナムの志士達に資金援助をし、東遊運動を支援しました。フランス植民地主義者の抑圧下において、弱者の側に立つことを選びました。自身はベトナム人ではありませんでしたが、多くのベトナム人よりもベトナムの未来を信じていました。


彼らは一体、何者だったのでしょうか?日本人でありながら、中国、朝鮮、フィリピン、ベトナム等、アジア地域の自由のために人生を捧げました。帝国主義に反対しながらも、帝国の中枢中核的地域に身を置いていました。彼らの名前は教科書には載っていないことが多いですが、アジア革命の血脈の中に流れています。彼らは、日本の「アジア民主派」でした。それは、暗黒時代に最も出現し難いけれども、最も記憶に留めるに値する光でした。

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