京都赤松小三郎先生遭難の碑等
大阪釜ヶ崎の宿泊先を出発して、日本橋、難波方面へ進むと、やはり思わず、いろいろな場所に立ち寄ってしまい、京都に向かうのが遅くなって、赤松小三郎先生の墓がある金戒光明寺等、先生ゆかりの他の歴史スポットへ行く時間がなくなってしまいました。とりあえず、今回は時間の関係により、薩摩藩士で先生の門下生でもあった桐野利秋等による先生暗殺の地に設置された赤松小三郎先生遭難の碑のほか、議会政治の提唱等を主旨とする意見書の提出先の一人となった福井藩主松平慶永ゆかりの福井藩邸跡、先生暗殺の日となった慶応3年9月3日(1867年9月30日)から間もない慶応3年10月14日(1867年11月9日)に将軍徳川慶喜が政権返上を奏上し、翌日に明治天皇による勅許がなされたという大政奉還の舞台となった二条城等を廻りました。実際のところ、先生遭難の碑は東本願寺から距離が近いです。他に逃げ道がほぼないような場所が故意に選ばれ、待ち伏せをされたのでしょう。なんとか躱して、東本願寺まででも逃げ込めれば良かったのですが。
思い返せば、2021年2月1日、広島市平和推進基本条例草案に関するパブリックコメントにつき、草案修正意見書を仕上げている際にミャンマー軍事クーデター勃発の一報が入り、その夜、日付が変わってから提出しましたが、ふと、近代日本によるアジア侵略という潮流の源となったと考えられる動乱の幕末明治維新期に、戦争を回避し、平和裏に新時代を迎えられるように尽力した無名の人物も実在したことだろうと思い、調べてみると、出てきたのが赤松小三郎先生でした。あのご時世に、幕府と薩長の間でギリギリまで交渉を取り持ち、平和的転換のために、当然ながら、「とりあえず」、天皇制を維持、利用した民主的転換を図ったとも言えるのでしょうが、薩摩藩士で先生の門下生でもあった桐野利秋等に暗殺されてしまった赤松小三郎先生。仮に、怪我を負ったとしても一命を取り留めていれば、その後はどうなったのであろうか?完全なる共和制への移行の必要性を意識できたのではないのだろうか?真にアジア地域、世界と友好的な政体への移行を推進できたのではないのだろうか?という切り口で考えて、日本語歴史小説の執筆、赤松先生関連パブリックドメイン作品の繁体中国語への翻訳等を徐々に進めています。今回、中古の古語大辞典も無事に入手できました。ただ、他にも翻訳を進めている作品もありますので、赤松先生関連作品の第2弾の出版はまだ先の話になるだろうと思います。近現代政治史といったようなテーマは、採算的になかなか厳しい分野かもしれません。弊社は設立以来連続赤字でありますが、たとえこの先、20年連続赤字となろうとも、闘い抜くつもりです。
今回、約7年ぶりの日本一時帰国の2日目は、雨が降るとの予報でしたが、京都にて小雨が降った程度で済んだので良かったです。山陰本線二条駅から乗車し、赤穂線、瀬戸大橋線等を経由して、普通列車は香川県観音寺駅止まりとなってしまったので、父母が自動車で迎えに来るまで、駅周辺をぶらついてみました。上海から直接高松空港に飛べれば便利だったのですが……。2024年1月3日撮影。
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